Asianuxのプロジェクトの誕生は、いつだったか。
Asianuxという名前が決まる以前(Asianuxという名前が決定した経緯は、別の機会にお話しますね)は、今のAsianuxについては、Common Server Moduleとと呼ばれていました。このCommon Server Moduleを共同開発しようという話をミラクルから、Red Flag に持ちかけたのがきっかけです。なぜ、そういう働きかけをしたか、、、、この業界の方であればおおよその検討がつくかと思います。
Asianuxの目的の中のひとつでもある、共通(Common)
の説明にもありますが、やはりハードウェアベンダー、ソフトウェアベンダーの動作確認の必要性というのが当時、非常に重要な意味合いを持ち始めており、それらを推し進めるた に中国のLinuxベンダーであるRed Flagと組むことを考えたわけです。
なぜ、中国だったかというと、ミラクル自身がやはり日本人がつくる日本人のLinuxを開発したかったわけで、同じような自国への意識が強い国とやるべきだったことと、やはり中国という市場は今の世界の経済の中で非常に可能性のあるマーケットであったことが大きな理由です。
これらの要素が重なり、最初にRed Flagにコンタクトしたのは、2003年8月です。2003年8月20日~22日にLinux World Beijingが開催されており、このタイミングで、私が、北京に赴き、Red Flagにコンタクトすることになりました。
2003年のLinux World Beijingは、各メーカが多く参加しており、外資系の会社が中国市場を重要視していることを肌で感じました。
この当時は、OracleがUnbreakable Linuxを打ち出し、Linuxを本格的
なDB用のOSとして利用が推進された年でもあります。
また、United Linuxが
2002年に発表になり、
本格的な活動が活発になり出した頃です。
これら多くの要素が絡みあい、Asianuxの交渉は、2003年8月22日に始まり、2004年1月7日にアナウンス されたということになります。
当然、この間に契約交渉が色々とあるわけですが、私は、中国人と仕事をするのは初めてでしたし、どういうポイントで押したり、引いたりするのかが始めは分かりませんでした。Oracleは、当時Red Flagとも既に強い連携がありましたので、
OracleのAPAC人たちにも協力を仰ぎながら、何回か、お酒を酌み交わす中で、お互いを理解は深まっていったと思います。
しかし、契約が完了した時点では、開発が始まっているわけでもなく、多くの人間が関わるこのプロジェクトをどうやって進め、製品を出すのは困難極まりないことは容易に想像できました。
最初に北京に常駐をした2名の開発者が、このプロジェクトをリードして、進めてくれたことが、Asianuxの開発が成功する中で非常に重要な要素でした。凍てつく北京の冬に頑張った、この2名については、いつかまた紹介したいと思います。







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