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プロフィール

吉岡 弘隆 - よしおか ひろたか

日本OSS推進フォーラム ステアリングコミッティ委員
OSDL Board of Directorsを歴任
カーネル読書会主宰

2000年6月、ミラクル・リナックスの創業に参加。
95年~98年、米国OracleにてOracle RDBMSの開発をおこなっていた。
98年にNetscapeのソースコード公開(Mozilla)に衝撃をうけ、オープンソースの世界に飛びこみ、ついには会社も立ち上げてしまう。
2008年6月取締役CTOを退任し一プログラマとなった。

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2008年7月

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取締役退任。生涯一プログラマ宣言。

6月30日臨時株主総会において、ミラクル・リナックス株式会社の新取締役として、児玉崇、伊東達雄を選任し、それに続く、取締役会議により、新しい代表取締役として児玉崇を選任した。佐藤武前代表取締役社長は、取締役会長へ、わたしは取締役を退任した。

ここにご報告する。

さて、ここからが本題(?)である。取締役を退任したからといってミラクル・リナックスを辞めるわけではない。今後は経営者という責任ある立場を退き一技術者としてミラクル・リナックスに貢献していく。

2000年6月にミラクル・リナックスを創業以来8年にわたって取締役CTOとしてミラクル・リナックスとともに歩んできたが、取締役というよりも、技術屋としてミラクル・リナックスのV1.0の開発、OSDL (Open Source Development Lab -- The Linux FOundationの前身)への参画、そしてAsianuxプロジェクトの立ち上げ、さらには未踏ソフトウェア創造事業や日本OSS推進フォーラムのサーバ部会での仕事などが思い出深い。取締役として経営に貢献したというよりも技術屋としての立場だったかと思う。正直言えば、経営者としては力不足であった。

8年前にはLinuxをエンタープライズ分野で利用するなどというのはほとんど冗談のように受けとられていた。誰が氏素姓のわからないフリーソフトウェアを企業の基幹システムに利用するのか。サポートはどうするのか。どのようにスケーラビリティを確保するのか等々。それぞれの課題について一つ一つ解決していったのがこの8年だったと思う。

オープンソースソフトウェアという未開の耕地にビジネスの種を植えた8年であった。

今後は一プログラマとして会社やコミュニティへ貢献していきたい。今年でわたしは50歳になる。いい年したおっさんである。とっとと技術屋なんかは引退してマネージメントの仕事でもしていろよという声も聞く。40代はミラクル・リナックスの取締役としての立場(?)もあったわけだが、それも退任したことだし、50代は、わがままを言って現役のプログラマに戻してもらった。はたしてプログラマとして使いものになるのか、ならないのか、不安がなくもない。この年で新しいことにチャレンジすることの難しさも知らないわけではない。

人生、綺麗事ばかりではない。いいこともあれば悪いこともある。上手くいくこともあれば上手くいかないこともある。成功もあれば失敗もある。家族には苦労をかけて申し分けないと思う。給料も役員報酬がなくなったので減ってしまった。子供の教育費も家のローンもある。

それでもと、思う。人生再チャレンジである。いくつになってもチャレンジである。

潔くない生き方かもしれない。ばたばた足掻いている。この歳でまだプログラマに拘るというのも相当見苦しい。でも、それがわたしなんだよなあと思う。

現在のプロジェクトはMID (Mobile Internet Device)向けのOS開発である。Intel Atomプロセッサ用のOS (Asianux Mobile Midinux)の開発を行なっている。20代の若手エンジニアの隣に座って日々ブートがどうだとかドライバが動くとか動かないとかをやっている。新人プログラマの一人として毎日勉強だ。grubのソースを読んだりsyslinuxのソースを読んで、SSD(Solid State Disk)が認識したとかしなかったとか一喜一憂している日々である。

カーネル読書会も続ける。このペースで開催していけば来年には100回になるだろう。第100回はゲストにLinusを呼びたいと思う。こんな事を言うと多くの人は笑う。だけど言葉にして言う。Linusを呼ぶことは簡単ではないけど不可能ではない。

次の10年自分はどのように生きたいのか。経営者ではなく一エンジニアとして生きいくのが自分の長年のユメであった。

ハッカーになりたい。ソフトウェアによって社会をよい方向へ変えたい。

こんなことを言うと頭がおかしいのじゃないかと言われる。暑苦しく、うざいと思われようとも、そのような人生をおくっていきたい。50代でプログラマを続けることは日本という地域では簡単ではない。そのくらいのことは理解している。道は遠く険しい。だけど、それも不可能ではないとも思う。職業としてのプログラマに誇りを持って生きていきたい。

日本に一人くらい、こんなへんなおやじのプログラマがいてもいいと思う。そういう我儘を許してくれるミラクル・リナックスそして家族には大変感謝している。

これがわたしの生涯一プログラマ宣言である。

皆様のご指導ご鞭撻よろしくお願いいたします。

セキュリティ&プログラミングキャンプ2008

ソフトウェアは人が作る。人がすべてだ。

若い人が魅力を感じなければその産業は衰退する。若い人にとってソフトウェア産業が魅力的なものだということを我々はもっと伝えないといけない。ビジョンを示し、その魅力を伝える努力をしないといけない。

一方で少しでも興味を持ってくれた人にソフトウェアを作ることの楽しさおもしろさ難しさを伝えることも必要だ。

人材育成だなんだと大げさにとらえるのではなく一緒にプログラミングの楽しさを経験したい。初心に戻ってプログラムを初めて作ったころの感動を体験したい。

22歳以下の皆さん。

あなたたちのために、そのような合宿を企画した。

セキュリティ&プログラミングキャンプ2008 http://www.jipdec.jp/camp/

『若年層のセキュリティ意識の向上と優秀なセキュリティ人材の早期発掘・育成』という目的で2004年からやっているセキュリティキャンプがきっかけだ。合宿形式で行うセキュリティ人材育成のイベントのプログラミング版だ。

U-20プログラミングコンテストで若い人たち(中学、高校生)のプログラムを読む機会があるが、やはり回りに相談する人がいないのか、プログラムの基礎的なことなどの理解が足りていない。例えばif文を延々と重ねて処理をするとか、いたるところに数字(定数)が書かれていたりとか、そーゆー力ずくのコードを目の当たりにみて、コードを書くにしても基礎的なイロハの伝授が必要であるということを痛感していた。

コードの書き方だけではなく、デバッグの仕方とか、gitをはじめとする分散バージョン管理システムあるいはOSSを前提としたコラボレーションのちょっとしたコツとか、必ずしも明文化されていないがとっても重要なことについて学ぶきっかけを作りたかった。

もちろん、その先にあるプログラムを作ることの楽しさ、達成感、充実感なども共有したい。

わたしのミッションステートメントをここに記す。プログラミングキャンプ宣言だ。

    *  オープンソースソフトウェアを開発する元気のいい若手プログラマを輩出したい。
    * 単にプログラミングテクニックが凄いというだけではなく、コミュニティのリーダとして、人々の話をよく聞き(コミュニケーション能力)、信頼されるようなプログラマを輩出したい。
    * 彼等が今後の核になってさらに新しい人材を発見発掘するというエコシステムを作りたい。
    * 彼等が新しい価値を創造し、世界から尊敬されるような人々になって、日本という地域が、そのような人々が集まるような場所にしたい。

10年で200人。

これが、わたしのユメだ。

そのような若者を雇用するビジネスを作るのが大人の役目である。

多くの若者の応募を待つ。

勉強会のこと

ここのブログの読者の皆様にはご存知のこととは思うが、ほそぼそとカーネル読書会という名の宴会、もとい、勉強会みたいなものをやっている。

最近特に思うのだが、東京界隈ではそれこそ毎日のようにあちらこちらで勉強会など開催されている。定期的な開催もあれば不定期な開催もある。カーネル読書会のようなゆるゆるな運営もあれば、きちんとした運営のもと何百人もあつめるカンファレンス形式のものもある。

まあ、感覚的には結構頻繁にいろいろやっているよねと思っていたのだが、下記のIT勉強会カレンダーを見てほしい。

https://www.google.com/calendar/embed?src=fvijvohm91uifvd9hratehf65k%40group.calendar.google.com

本当に毎日毎日いろいろな勉強会をやっている。このカレンダーは、はなずきんさん(http://d.hatena.ne.jp/hanazukin/)が個人で編集されているものなので、おそらくもれや抜けはすくなからずあるだろう。例えば、仲間うちでやっている読書会とか、広く募集していない勉強会などは当然載っていない。

これらの勉強会の特徴を一つだけあげるとしたら有志がボランティアでやっているものだ。商用のセミナーではない。IT系のカレンダーなので、業界の人達が集まるLinux World Expoとかの日程などももちろん掲載されているが、圧倒的多数はボランティアが自主的に開催している勉強会である。

個人が主催しているので、会費も無償か、あってもかかった経費を割り勘というのが多い。

内容も千差万別だが、それにしてもこれだけのコンテンツをほぼ無償でよりどりみどり勉強できる環境がこの地にはある。

勉強会によっては、勉強会のあと懇親会(宴会だよ宴会)がついてくる。これがまた楽しい。カーネル読書会は宴会があってのカーネル読書会のようなものである。

発表者に直に質問する絶好のチャンスである。宴会で隣に座った人が実は業界で知らぬ人はいない神様みたいな人だったりすることもある。あるいは一度も会ったことはなかったけど日記は良く読んでいたという、ああ、あの人かという人だったりすることもある。

確かに初めて勉強会に行くのはちょっとした勇気が必要だ。周りの人は皆初対面だったりするのはなかなか踏ん切りがつかない。行っても打ち解けないかもしれない。常連の人達は楽しそうにやっているかもしれないが部外者が行っても場違いではないか。などなど行かない理屈はいくらでもつけられる。

しかし、別にそんなに大袈裟に考えることはないと思う。ためしに行ってみて、だめだったら、自分にあわなかったら、別の勉強会に行けばいいだけの話だ。経済的なダメージがあるわけではないし、何がしかの知識が得られ、ひょっとしたらもっとすごい何かを得られるかもしれないチャンスなのである。

だめもとである。

いろいろな勉強会に参加してみて本当に思うのだが、このゆるい参加者の繋がりはとてつもない可能性を持っている。

カーネルの技術者もいれば、Web 2.0の開発者もいる。Perlのエラい人もいれば、Rubyの開発者もいる。ユーザーもいればばりばりのハッカーもいる。皆楽しそうにくっちゃべっている。わたしみたいにビールでヘロヘロになりながらキャッシュミスがどーだこーだなどと延々ヨタ話をかましている奴もいれば、大所高所から日本のIT産業の未来について、おまえはこの国の首相かみたいなツッコミを入れたくなるような論調でべきろんをぶっているやつもいる。

若い人もいれば年寄もいる。

オープンソースの技術論についてはとどまる事をしらない。MySQLやPostgreSQLのスケーラビリティについて、それこそ重箱の隅をつつきながら議論している。LAMPなどの定番のオープンソースについては共通の基盤として語彙がそろっている感じである。

そして単なる参加者だけではなくより積極的に発表者になろうというのが、1000人スピーカプロジェクトである。

http://ja.doukaku.org/wiki/index.php/1000speakers

自分を晒そう
恥ずかしがるための プライドなんて捨てちまえ!
それが自分のためにも 人のためにもなる

1000人スピーカ プロジェクトは、発表経験の少ない人に「自分の技術をさらけだす場」を提供することを目的としたプロジェクトです。

カンファレンスで自分のやったことについて発表することはとても重要です。しかし、参加者が100人を超えるようなカンファレンスで発表するのは敷居が高いです。また、そういうカンファレンスではどうしても参加者同士のつながりが薄くなりがちです。そこで、30人程度の規模のカンファレンスを繰り返し行うことで、敷居を低く、間口を広く、密度を濃くしていこうと考えています。

これだよこれ。こーゆープロジェクトがどんどん増えていって、勉強会の幹事もどんどん増えていって、参加者も発表者もどんどん増えていって、知が流通している。そんな実感がある。

日本にはGoogleはない。

だけど嘆くことはない。

われわれは勉強会、読書会という知のネットワークをここに持っている。

そしてプラットフォームとしてのインターネットを使いこなしている人々がいる。

巨大なバーチャルな学びの場をわれわれは持った。梅田望夫が「私塾のすすめ」で語っているような「私塾」があるような気がする。

参考:

カーネル読書会に必要なことは宴会で学んだ/ユメのチカラ
http://blog.miraclelinux.com/yume/2007/08/post_5135.html
勉強会の幹事に向けて書いた。勉強会の運営のイロハである。

ちょっとした勇気と行動力(オフ会編)/ユメのチカラ
http://blog.miraclelinux.com/yume/2007/12/post_fbd6.html
こちらは参加者へのメッセージだ。最低限、初対面の人と知り合いになろう。名刺交換をしようという、ちょっとしたコツを伝授(大袈裟だな)している。

勉強会でのエピソードなども早速ブログのネタにしちゃったりする。

Web2.0時代のソフトウェア開発のスピード/ユメのチカラ
http://blog.miraclelinux.com/yume/2007/04/web20_5b1a.html
勉強会の後の懇親会で教えてもらったエピソードをネタにしちゃっている。金曜日の飲み会で企画会議をするという。

そしてこのエピソードはいろいろなところで使い回しをさせてもらった。
NDD (Nomikai Driven Development)/ユメのチカラ
http://blog.miraclelinux.com/yume/2007/06/ndd_nomikai_dri.html

カーネル読書会のめざすもの/ユメのチカラ
http://blog.miraclelinux.com/yume/2007/06/post_d222.html
なぜ、わたしはカーネル読書会なるものを始めたのかについて記した。

カーネル読書会とよしおかの野望/ユメのチカラ
http://blog.miraclelinux.com/yume/2006/07/post_69b1.html
ゆるい感じのカーネル読書会の実態を記している。

OSSの技術カンファレンス、縦串横串/ユメのチカラ
http://blog.miraclelinux.com/yume/2006/07/oss_f5f1.html

日本にはGoogleはないけど、OSの専門家やRDBMSの専門家やWebアプリケーションの専門家がバーチャルにコラボレートして世界にないものを創造していく、そーゆー緩い場ができると面白いなあなどど最近思っているのだ。それを東京と言う地域でやれないかなあと。

1000 Speakers Conference/ユメのチカラ
http://blog.miraclelinux.com/yume/2008/02/1000-speakers-1.html
先に紹介した1000 Speakers Conferenceに参加した時のレポートだ。発表がニコニコ動画にアップされているのも嬉しい。インターネットのおかげで時間も空間も超越できるようになった。

Linux World Expoのパネルディスカッションに参加します

明日(5月29日)、Linux World Expoのパネルディスカッションに参加します。

http://www.idg.co.jp/expo/lw/lw2008/details/index.html#a27

日本SGIの高澤さんの司会で、キヤノン株式会社、志田惠昭さん、横河フィールドエンジニアリングサービス株式会社、丸茂晴晃さんらと人材育成をテーマに議論する予定です。

どんな話になるかは、その場のノリみたいな感じが強いのですが、お時間ありましたら、参加してください。

勉強をしなおす

いくつになっても勉強だ。昔とった杵柄。錆びたナイフを研ぐ。

という事で日頃なにげなく使っているEmacsのマニュアルを再読する事にした。会社の机の上にO'reillyの Learning GNU Emacs、Writing GNU Emacs Extensionsそして竹内監訳のGNU Emacsマニュアルがある。竹内監訳のGNU Emacsマニュアルの初版は1988年2月である。20年前である。いくら何でも日進月歩、秒進分歩のIT業界の時間感覚でなくても古すぎるだろうと思わなくもないが、機能がテンコ盛のEmacsにはversion 18ころの古典的な、基本機能をおさらいするには、サイズ的にも丁度いい感じである。

正直に告白すると、Emacsを日々使っているが自分で拡張を書いたりelispで手間仕事をちゃかちゃか片付けるという事はほとんどしていない。何かのきっかけでもないとマニュアルを読みかえすということもほとんどしない。ぐぐればどーにかなる。だけど、一見時間がかかると思えても基本にたちかえってみることは悪い事ではない。

今使っているEmacsは22.1.1だ。Ubuntu 8.04にデフォルトでついてくるやつである。10数年Emacsを使っているけど全然使いこなしている感じがしない。ちゃんと基本にもどって勉強しなおしてみよう。きっと新しい地平線が見てくるに違いない。

梅田望夫著「ウェブ時代 5つの定理」

シリコンバレーという地域の競争力はどこにあるのだろう。あの底抜けの明るさはいったいなんなんだろう。と思う。

梅田望夫の[ウェブ時代 5つの定理」はシリコンバレーの空気をビジョナリーの言葉によって表現しようと試みている。

梅田にならって、「ウェブ時代 5つの定理」でYahoo!ブログ検索、Googleブログ検索をしてみた。このブログを書いている時点でYahoo!で318件、Googleで約272件とでた。発売されてから1週間たつかたたないかで約300件ほどの記事が執筆されたということになる。それを梅田はすべて読むという。

毎日毎日自著の感想を何時間もかけてへとへとになりながら読む。読み続ける。それはなぜだろうと思う。

素人が書きなぐった感想をひたすら読みまくる。

リトマス試験紙として、「コンピュータによって社会を変える」という言葉を考えよう。あるいは「コンピュータによって社会を変えたい」という願望でもいい。あなたはこの言葉に共感を覚えるか、それともそうではないか。強くそう思う、そう思う、どちらでもない、そうは思わない、強くそうは思わない。

「コンピュータ」という言葉を「プログラム」という言葉に置き換えても、あるいは「技術」に置き換えてもいい。

技術者であるあなたはあなたの技術によって社会を変えたいと思っているのか。いつの日か自分の作った製品が世の中のどこかで使われて、何がしかの利便性を誰かに提供し何がしかの価値を発生させる。その様なイメージをあなたは持つのか。

ハッカーと呼ばれる人は、このプログラムによって何が変わるかをイメージできる人であり、プログラムによって社会を変えたいと思っている人のような気がする。

日本という地域で「コンピュータによって社会を変えたい」などというと、頭おかしいんじゃないの、宗教がかっていて気持ち悪いよと思われなくもない。

しかし、シリコンバレーの地には、そのような技術に対するオプティミズが蔓延しているような気がする。

それが彼の地の競争力の源泉なのだろうか?

もしそうだとしたら、それを日本という地域でコピーできないのだろうか?

ウェブという時代に一人一人が生き生きと幸せに生きるために。

高校時代マイクロプロセッサというものを知って、これで社会が変わると高校生ながら思った。就職してインターネットにふれて、これで社会が変わると新入社員ながら思った。オープンソースとであって、これで社会が変わると思った。

そしてWeb2.0の時代。

PCでもなく、携帯でもない。ワイヤレスブロードバンド時代。次の10年に何が来るのか。

東京の地で若い連中とくっちゃべりながら、この連中によって、いろいろ面白いことが始まっていることを確信する。LL (Lightweight Language)やらLAMPやら軽やかに使いこなす彼らが軽やかにWebサービスを立ち上げ緩やかな連携を会社の壁をいとも簡単に乗り越えて行なっている。

素敵だ。

それを目の当たりにすると、日本始まったな、と強く思うのである。

シリコンバレーの空気を日本語で発信し続け、若い人を励まし、彼がやらない限り世に起こらないことを梅田望夫はやる。

日本ならではの強さとシリコンバレーならではの強さの融合という最終定理に向けてわたしも微力ながら何がしか試行錯誤をしたいと思った次第である。

1000 Speakers Conference

11 1000 Speakers Conference参加した。ミラクル・リナックスで開催した。

わたしの資料もアップしました。ylug_1000speakers.pdfをダウンロード

溝口さん(ドワンゴ)がニコニコ動画にアップしてくれた。ありがとうございます。

わたしは2-13の「カーネル読書会の作り方」でお話をさせていただいた。オフ会的勉強会の実践的開催方法論(おおげさ)について発表したのでぜひ参考にしてほしい。

各、発表はそれぞれ個性豊かで大変面白いものばかりだった。ustream.tvでの中継と、チャットがライブ感をかもし出していた。160人程度インターネット経由で中継を見ていたようである。

その後、懇親会を同会場でピザとビールで行なった後、新橋の居酒屋で二次会をした。

 


1000人スピーカカンファレンスという素敵なカンファレンスを開催してくれた、西尾さん、天野さん(amachang)、動画中継の溝口さん、発表者の皆さん、参加者の皆さん、どうもありがとう。そして、ニコニコ動画、はてな、ustream.tvなどインターネット上のプラットフォームを作ってくれた皆さんにも深く感謝したい。そのようなものがなければ、今回のカンファレンスはできなかったと思う。

若い人たちの元気のいい姿をみるのは心地よい。

第二回1000人スピーカカンファレンス/西尾泰和のはてなダイアリー
http://d.hatena.ne.jp/nishiohirokazu/20080223/1203780721

話したい人のためのカンファレンスを開催します。(追記あり)/IT戦記
http://d.hatena.ne.jp/amachang/20071211/1197350279

1000人スピーカーカンファレンス
http://ja.doukaku.org/wiki/index.php/1000speakers:2

技術は会社のものではない。みんなのものだ。社内セミナーをニコニコ動画(RC2)で公開するまで。

先日、野村総合研究所向けに「技術は会社のものではない。みんなのものだ」というタイトルで社内セミナーをした。

オープンソースにまつわるソフトウェア開発方法論みたいな話である。まあ、中身は日頃わたしのブログをご覧の皆様にはおなじみなお話である。

野村総合研究所(NRI)の社員30人程度の皆様への社内セミナー(注)である。今回一つお願いをした。「講演を後に公開していただく事を前提にお請けします」。

セミナーを職業にしている講師にとってはありえない条件である。しかし、わたしは講演を公開することの経済的な損失というのはないし、むしろ自分の日頃の主張と行動に一貫性を持たせるという意味あいの方が強い。

講演内容を公開しろなどという講師は前代未聞である。大きな企業になればなるほど社内調整というやっかいなものが待っている。一度誰かが先例をつければ次の人はその道をフォローできるが、最初の一歩が困難にみえる。越えられない壁のように見えなくもない。

しかし、誰かが最初の一歩を踏み出して、何か新しいことをはじめたからこそ今の姿があるはづである。見えない壁を乗り越えるにはちょっとした勇気と行動力が必要である。社内力学の中で上手にたちまわる社内調整力、したたかなソーシャルハックが必要である。

エンジニアはどうもそのようなハックが苦手というか無頓着な人が多い気がするが、しなやかにそしてしたたか行動していきたい。

今回、公開をお願いしたとき、担当の野上さんは「よしおかさんからは何となくお願いされるような予感がしていましたよ」と後に語ってくれたが、何事もダメモトでお願いしてみるものである。わたしがお願いしなければ、公開はされなかったわけだが、野村総合研究所の多くの方の努力の結果、社内セミナーの公開を達成されたことは素晴しい事だと思う。

やればできるじゃん、などというと大変失礼にあたるが、何事もとりあえづやってみて、上手くいかなかったら上手くいくような工夫をする。そーゆースタイルでソーシャルハックを続けていく。

公開しないより公開した方がトクな状況を模索する。あるいは公開してもソンでない状況を発見する。企業の利益にそうような提案をする。

担当の野上さんには社内調整などご苦労をおかけした。感謝したい。ありがとうございました。

注:社内セミナー:NRIグループ内の社内ベンチャー制度の一つとして、ほぼ月1回、起業家などを呼んで講演会および交流会を実施している。啓発活動とケーススタディの場として提供。

講演会資料nri080122.pdfをダウンロード

さよならNetscape、こんにちはWeb 2.0

Netscapeのサポートがこの2月に終了するというニュースが昨年末に流れた。それを記念(?)して、「さよならNetscape」というイベントが先日開催された。

一時代を築いたブラウザが世を去るというのは感慨深い。

当日、所用があったので参加できないかと思ったが、帰宅途中渋谷で乗換だったので、ふと気が変って、そのままずんずんイベント会場へ行く自分がいた。

なぜ、そこに引き寄せられたのだろう。気がつくとイベント会場にいた。

会場にはお久しぶりの人達がいっぱいいて、神田さんが誰かが作ったブラウザの年表を見ながら90年代のインターネットの事を語っていた。

ビールを飲みながら皆さんのお話を聞く。NetscapeがAOLに買収されて10年後にサポートを終了する。まあ人はいろいろ失敗の理由を言うが、後づけの理屈のような気がする。

次のビールを飲んでいたらマイクがまわってきた。酔いも手伝って、「モジラの解剖」のお話をはじめる。スイッチが入った。一気にスイッチが入った。

モジラの解剖というのは、当時シリコンバレーにいたわたしが書いていた、モジラの解体新書とも言うべきWebのページで、どのようにビルドするかとか、どのようにハックするとかを載せていた。

10年前にNetscapeはそのソースコードを公開し、それをモジラと名付けた。98年1月23日にそのプレスは発表された。その衝撃。3月31日のソースコード公開までわくわくしながらそれを待ち、当日28Kbpsのモデムで2時間かけてピ〜ヒャラピ〜ヒャラさせながらダウンロードしたのである。それから数ヶ月、夜中に自宅でハックした作業について書いたのが、「モジラの解剖」だったのである。

昼間はOracle 8.1(後にOracle 8iと呼ばれる)のエンジンを開発しつつ夜中にモジラを解剖する。そのような体験をするのは生まれて初めてだ。なんだかとんでもない事が世の中でおこっている。そのワクワク感、ドキドキ感を綴った。思いのたけをふりしぼって書いた。

誰かに向って書いたわけではなく自分の正直な気持をストレートに書いていった。

それが「モジラの解剖」だ。

10年後、渋谷で「さよならNetscape」というイベントで、そんな事を、おじさんの昔話として語った。そうしたら会場にいた何人(!)もの人が、よしおかさんの「モジラの解剖」を読んでいましたよ、あのページを見たからモジラに興味を持ったんですよ。Software Design誌に載った、よしおかさんの記事を読みましたよ。あの記事を読んだんで、今ここにいるんですよ、と言われた。

10年前、誰のためでもなく自分のために書いたウェブのページ。シリコンバレーで書いたページを日本で読んでいた人に、10年後、渋谷で再開する奇跡。

涙が出た。嬉しかった。

ああ、Netscapeは自分の人生を変えちゃったんだなあ。

オープンソースというパラダイムは随分大きな転換だったんだなあと思った。

2000年4月に日本オラクルのセミナールームでMozilla.party.jpを開催した。当日集まった多くの人もわたしの「モジラの解剖」を読んでくれていた。そして、その時の嬉しさも楽しさもよみがえった。

インターネットにはネガティブな事もいっぱいあるが、誹謗や中傷や犯罪もあるけど、自分の書いた一遍のページがインターネットの誰かにつたわって、それが10年後、大きな利子をつけ自分にめぐってくる。

インターネットの奇跡。

そして、その次の日、その興奮さめやらぬテンションをたもったまま、ITPro EXPOでアプレッソの小野さんと対談した。

当初はモデレータの真島さんの質問に二人が答えるという静的な構成を考えていたのだが、小野さんの話を聞いているうちにスイッチがはいってしまって、どんどんどんどんWeb 2.0時代での自分語りの話になってしまった。

世界中で自分のページを読む人がたった3人しかいないとしても自分に正直に書く。たった3人だとしても、あなたのページを読む人は絶対いる。未来の自分がそれを再発見して、それに癒やされる。

そんな話をした。熱く語った。

会場にいた方が、対談後、それは「ナースログ」というんですよと教えてくれた。

会社帰り焼肉屋で旨い焼肉をつつきながら、ここ数日におこった奇跡について友人と語り、インターネットの可能性について、未来について夢をふくらませたのである。

ITPro EXPO 対談
1/31にITPro EXPOでミラクルリナックス吉岡さんと対談します。
http://blog.livedoor.jp/lalha/archives/50201980.html

お知らせ。ITPro EXPOでアプレッソの小野さんと対談します。(ユメのチカラ)
http://blog.miraclelinux.com/yume/2007/12/itpro_expo_51ae.html

X-over Development Conference in ITpro EXPO
【吉岡弘隆 × 小野和俊】
Web 2.0時代のソフトウエア開発者の生き方 
http://itpro.nikkeibp.co.jp/expo/forum/view.html?c=X10

ITpro Expo2008に行ってきた その1 吉岡さん×小野さん (chiqashi.log)
http://d.hatena.ne.jp/chiqashi/20080131/1201769745

[カンファレンス]【ITpro EXPO 2008】Web 2.0時代のソフトウエア開発者の生き方 (朝は眠い日記)
http://d.hatena.ne.jp/lifeloveregret/20080131#1201777654

「自らネットで情報発信することですべてが変わる」,実力派開発者が語るこれからのソフトウエア開発者の生き方
http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/NEWS/20080131/292680/

『さよなら Netscape』に参加してきました。(ラボブログ)
http://blog.spicebox.jp/labs/2008/01/_netscape.html

FirefoxNITE 「第一回さようならNetscape」へ遊びに行ってきた。(tamcat(木管猫)の備忘録)
http://blog.so-net.ne.jp/tamcat/2008-01-31

Netscapeのシール (すめるまん Broken Diary)
http://d.hatena.ne.jp/smellman/20080128/1201540049

モジラの解剖(文字コードをshift JISにして見てください)
http://web.archive.org/web/19990202012229/www.best.com/~yoshioka/d/98/mozilla.html

モジラの解剖  ソフトウェアデザイン誌、98年8月号(文字コードをshift JISにして見てください)
http://web.archive.org/web/20000823214952/www.best.com/~yoshioka/d/98/sd199808.html

セキュリティ・キャンプ・キャラバンwithプログラミング沖縄

080126_13140001 若年層の情報セキュリティ意識の向上と優れたセキュリティ人材の発掘と育成を目的として、毎年開催しているセキュリティキャンプの成果とその蓄積されたノウハウを広く一般の方々にも公開すること、これからキャンプに参加していただきたい若い方々に正しい情報セキュリティの理解と意識の向上を図ってもらうこと、また、オープンソースソフトウェア(OSS)を中心としてプログラミングやアプリケーション開発について興味を持っていただくことを目的として、「セキュリティキャンプ・キャラバン with プログラミング -沖縄-」を開催します。
http://www.jipdec.or.jp/camp/caravan/caravan_okinawa.html


080126_13140002

ということで沖縄にきている。わたしは大阪、筑波、そして沖縄と三ヶ所キャラバンした。

来週は横浜で開催するので東京近郊の皆様はぜひ参加してほしい。
http://www.jipdec.or.jp/camp/caravan/caravan_yokohama.html

セキュリティキャンプ・キャラバンwith プログラミング 2007
集まれ“若い力”
http://www.jipdec.or.jp/camp/caravan/caravan.html

ちょっとした勇気と行動力(オフ会編)

プログラマがプログラマとして楽しく生きるちょっとしたコツ。

プログラマがプログラマとして楽しく生きるには、ちょっとした勇気と行動力が必要だ。別にプログラマだけじゃなくて、営業だって、マーケだって、誰だって、それは必要だと思うのだけど、まあ、それはそれ。

例えば、Perlの最新動向を知りたくて、どっかの勉強会に出たとする。この時点で、すでに勉強会に出るという「ちょっとした勇気と行動力」を発揮している。素晴しい。その前向きな姿勢は、何もしないでモンモンとしているより何十倍も素晴しい。

さらに、懇親会(まあ、普通の宴会だと思えばいい)にも出てしまおう。知り合いを見つけて、やあやあやあと食っちゃべる、というのも良いが、それはほどほどにして、最低限一人でも初対面の人と知りあいになろう。初対面の人に自己紹介するというのも最初はドキドキするものであるが、それもちょっとした勇気と行動力でのりきろう。社会人であれば名刺交換というプロトコルがあるので、自己紹介はある程度パターン化できる。

さけたいパターンは知り合いだけの内輪で盛り上って終るというもの。単に内輪だけで盛り上りたいのであれば、別途宴会でもなんでもした方が効率(?)がいい。主催者としては、せっかくオフ会の場を提供したのだから積極的にいろいろな人が知りあって、いわゆるネットワーキングをして、知りあいの輪を広げて欲しいと思う。カーネル読書会なんていうのは、まさに技術系の出会いの場だ。

まあ、話をしてみてちょっと苦手とか生理的にうけつけないというのも、もちろんあるので、その場合はまた別の人とお話をすればいいだけの話なので難しく考える必要はない。

そーやって、人の輪を広げていくと、今まで見えていなかった地平線が見えてくる事がある。

わたしの場合は単に宴会が好きという事もあるのだけど、それでもカーネル読書会を80回以上やっていて、その度ごとに何人かの人と知りあって、下手をすると1000人くらいの人とはお目にかかったのだはないかと思う。だからどーだとか言うことはないし、それによってお金儲けに役だったということは一切ないけど、その出会いが私の宝物になっていることは間違いない。わたしのこのネットワークはわたしの価値そのものである。

今でこそカーネルハッカーの人にメールを書いて、カーネル読書会でプレゼンしてくださいなどどお願いすると、大抵の場合、スケジュールさえあえば、喜んで発表してくれる。それもこれも長いことやってきたということもあるけど、わたしの最初の一歩、ちょっとした勇気と行動力によって達成できたことだと思う。

ちなみにカーネル読書会の講師の皆さんは講演料も全くなく、手弁当で面白いお話をしてくれるのである。大変ありがたい事である。

オフ会とか懇親会とかは初対面の人と知りあいになる貴重な機会なのである。プログラマはあんまりそのような場になれていない。引込みじあんなあなた、ちょっとした勇気と行動力で、試してみよう。思ったより難しくはない。

すいません、名刺交換させていただいてもいいですか。わたくし、よしおかと申します。はじめまして。

それだけである。簡単でしょ。

それから始まる出会いは、あなたか想像する以上に豊かで楽しいものになると思う。すくなくともわたしはそのような経験をしている。

お知らせ。ITPro EXPOでアプレッソの小野さんと対談します。

来年1月31日に開催される ITPro EXPO で、アプレッソ代表取締役副社長CTOの小野さんと対談します。

【吉岡弘隆 × 小野和俊】Web 2.0時代のソフトウエア開発者の生き方 

今から大変楽しみです。
あとここだけの話ですが、このセッションだけ特別に録画OKのお許しをいただいています。撮影隊のボランティアをやってもいいよという方はわたしまでメール(hyoshiok at miraclelinux.com)ください。


未踏オフ会

古川享PM(プログラム・マネージャ)の未踏ソフトウェア創造事業(長いな、以下未踏と称す)のオフ会に参加した。

古川さんの事は30年くらい前から、わたしは一方的に名前を存じあげていたのだけど、直接名刺交換をするのは初めてである。それはともかく、1970年代のマイコン世代の懐しいお話満載で、ASCII出版のころとか、マイクロソフト株式会社設立のころのエピソードなど興味がつきなかった。

最初にパワーポイントのちょっとしたTipsを延々話していたのは笑った。YouTubeのCTOは、パワーポイントも上手に使えないとか、どーでもいい(失礼)エピソードが面白い。

古川亨略歴ということで、ASCII時代の話から入った。

79年11月のASCIIにパーソナルコンピュータはメディアになるというコラムを書いてそれが自分のビジネス、生き方の指針になった。その後、ASCIIでInformixの日本語化、BSD Unixの日本語化、これはのちにSONY NewsとかUltrixで使われた。86年マイクロソフト日本法人設立。

当時Apple/Sun Micorsystems/Microsoftの三社から社長のオファーがあったが、マイクロソフトの社長になったのは皆さんご存知のとおり。人事権に関しては誰がなんと言おうとも、米国本社ではなく自分が持つというのを条件に社長になった。

人とぶつかった時に、相手の正しさを認めること、自分の非を認めること、それが重要で、Bill Gatesは人の話を聞く(リスニングスキル)がすばらしい。そしてそれを自分の力にする。

ソフトウェア事業は核となるところ、目標となるところを持っていないといけない。YouTubeは自分の母親にも使ってもらいたかった。そーゆーしっかりとした軸が必要。

天才プログラマを生かすプロダクションが必要。宣伝をして、マーケティングをして、営業をして、箱をつくって、権利関係を確認して、商標をとって、というような様々な事をやってくれる、アーティストに対するプロダクション事務所みたいなものが必要で、プログラマはその重要性を理解する必要がある。いいマネージャーに出逢う必要がある。

というようなお話をプレゼン資料2枚で延々1時間以上独演会をしている。古川節炸裂である。これはわたしの文章では伝えられない。ライブの醍醐味である。

その後、ユルユルの形でパネルディスカッションがはじまって、古川さんの熱気で竹内さんたじたじである。

いろいろ興味深いエピソードを聞きながら、結局のところ、日本という地域に圧倒的に足りないのは、やはり、ソフトウェア製品を作ってそれをビジネスにした経験者であり、その経験者を拡大再生産する土壌であると思った。古川さんのような「経験豊かなおじさん」が圧倒的に足りない。

足りないならば、もっともっと「古川さん」を利用させてもらおう。古川さん的な人達と交流を持ち、すこしずつ成功体験を拡大再生産していく。そのきっかけの一つとして未踏というプラットフォームを利用する。

優れたプログラマは沢山いる。彼ら彼女らの活躍するフィールドを作るために、ビジネスとして成立させるためのイロハを知っている古川さんのようなベテランをひっぱりだして、プログラマと同じ坩堝につっこんで、核融合を発生させる。

そんな期待感があった未踏オフ会であった。


古川 亨 ブログ
未踏ソフトウェア創造事業のオフ会に参加、その1
http://furukawablog.spaces.live.com/blog/cns!156823E649BD3714!8461.entry

Exciting BEAT「未踏ソフトウエア創造事業オフ会 & Venture BEAT Project」
http://v.japan.cnet.com/beatproject/blog/story/0,2000071498,000241c-0000021424o,00.htm

nobilog2
未踏ソフト第1回オフ会に行ってきました!
http://nobi.cocolog-nifty.com/nobilog2/2007/12/post_5ac0.html

Drift Diary12
未踏オフ会に参加してきました。
http://blog.drikin.com/article/73528036.html

nishimotzの日記
未踏オフ会
http://d.hatena.ne.jp/nishimotz/20071218

未来のいつか/hyoshiokの日記
未踏オフ会
http://d.hatena.ne.jp/hyoshiok/20071218

ウェブ時代をゆく

梅田望夫「ウェブ時代をゆく」を読んだ。

日本社会に足りないビタミンを補給してくれる書籍だ。

いまでこそ、シリコンバレー精神だなんだということが人々の話題にのぼるが、日本になんらかの違和感を持って90年代はじきだされたわたしとしてはかの地から日本を眺めていた時期もあったけど、結局のところやっぱし日本が好きだし日本でどうにかして何かを成し遂げたいと思っていて、その意味でこの「ウェブ時代をゆく」というのは梅田望夫が日本にいる若い世代に日本に足りない何かを必死になって伝えようとしている一冊である。

一時期、シリコンバレーに居たものにとって、梅田望夫のような楽天的な未来を信じる人々というのは、シリコンバレーには特異な人間ではないと言うことを知っている。それは、30代後半あるいは40代になっても現役でバリバリコードを書いている人が珍しくないのと同じくらい珍しくない。

大きな組織にしか大きな仕事ができない社会と、小さな組織あるいは個人にもそのようなチャンスがあり、小さな組織が有機的にからみあって共同で大きな仕事をする社会。極論すれば後者のようななイメージをシリコンバレーという地域は持つ。

ソフトウェアによって社会を変える。ハッカーが持つ精神というのを、日本で言ったら間違いなく笑われる。会議室でそんなことを言ったら頭がおかしいのではないかと思われる。

日本ではそんなことを声高では言わない。Suicaは便利だ。不具合も取りざたされているけど便利だ。いちいち券売機で切符を買う必要がない。そのようなちょっとした便利を実装しているテクノロジーを開発した人は声高にその成果を誇らない。誇ってもいいとわたしは思うのだがそれが日本の社会である。

どちらがいいとか悪いとかの話ではない。

もう少し個人が自立して生きていく方が息苦しくなくていいと思うが、別に誰かにそれを強制するつもりは、わたしはない。

誰もがシリコンバレーに行けるわけではないし、行く必要もないし、日本の社会がそれを真似る必要もない。

しかし、評論家のように日本でできない理由をあげつらってもしょうがないと思う。日本はIT産業が3K職種だなんだなんて言ってもしょうがない。仮にそんな状況があるのなら、それを変えればいい。大げさな話ではなくて自分の周りのちょっとしたことをちょっと変える。

わたしは、おっちょこちょいなもんだから、面白いと思っていることを無邪気にやっていたら、今ここにいる。何かの戦略性があってここにいるわけではない。しかし、若干の自覚を持って、プログラムを作ると言うことに何がしかのこだわりを持って、いまの自分のポジションを作ってきたことも確かだ。

日本と言う地域で、もう少しプログラミングをすることが楽しくて誰かの役に立つという仕組みができればいいなあと思っている。少なくとも、そーゆー社会は実現可能だと思うし、自分でもできる範囲でこつこつとやっていきたいと思っている。

例えば、技術者としてその専門性を伸ばすために、会社の壁を超えて自由に技術的情報を交換できる場としての広い意味でのコミュニティ活動は、最近では大変活発になってきている。東京ではそれこそ毎日のようにいろいろなところで、勉強会だか読書会だか講演だかセミナーが開催されている。自立した技術者であれば、そのような場所に顔を出し、自らの専門性を磨くことに障壁はほとんどない。自覚を持ってそのような交流会に出て刺激をうけ誰かのスタイルを参考にして自分のスタイルにしていける。

かつては大きな組織と言うのが圧倒的に有利であった。今でもそのようなことはいっぱいある。しかし、一方でウェブやオープンソースの時代はその規模の経済性が相対的に低くなってきていることも事実だ。

大企業じゃなければOSの開発に携われないということはない。大企業じゃなければプログラミング言語を開発できないということではない。大企業じゃなければデータベース管理システムを開発できないわけではない。

大企業をシリコンバレーに置き換えてもいい。

シリコンバレーにいなければOSの開発に携われないということではないのだ。

ウェブやオープンソースのおかげで随分世の中は面白くなってきた。

世の中は自分の力で面白くもつまらなくもなるんだよ、それを作っているのは一人一人の個人なんだよという考え、働き方は、若者だけではなく、40代、50代のおじさんたちにも共感できるなにがしかのものをもっている。自分を犠牲にすることはない。いい意味で自分のために自覚を持って働くことが全体の幸福に繋がるようなそのような社会をみんなで作っていきたいなあなどと妄想は膨らむのである。


「ウェブ時代をゆく」いよいよ発売です。 - My Life Between Silicon Valley and Japan
http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20071105/p1

新卒プログラマのころ

30代ころで記したとおり、30代の後半は米国OracleでOracle8の開発にどっぷりつかっていた。

日本で就職したころの外資系のソフトウェア開発というのは先に記したとおり、本国で作られたソフトウェア製品の日本語化などが主な仕事で技術的なチャレンジという意味ではいささか物足りないものであった。日本のベンダーに就職した友人などはもっとかっこいい開発をしているのではないかと、隣の芝生は青いと思っていた。

外資系といっても開発はどうせ全部本国(米国)でやっていて日本には全然権限がなくてつまらないというような風説が流れていたのも事実である。それは半分正しくて半分間違いだけど。

それよりか、日本企業の研究所かなんかに勤務して時代の最先端のソフトウェア研究に従事したほうが全然かっこいいと思った時期もなくはなかった。

わたしは日本DEC研究開発センターというのところに新卒で就職したのだが、日本DECという販売会社とは別会社で、米国DEC開発部隊の子会社であった。正直言えば「研究開発センター」という名前から連想して、何か最先端のソフトウェアの「研究」に従事できるのではないかと思っていた。現実は米国製ソフトウェアの日本語化が主な仕事であった。

80年代は第五世代コンピュータとかなんだとかでソフトウェア研究がDECのマシンで行なわれていたのでひょっとしたらその手の研究に従事できるかと思っていたのである。

わたしの入社して最初のプロジェクトは日本語COBOLの開発である。新卒の生意気な盛りのわたしとしては「人工知能」の研究とかではなく、COBOLの開発だとおおおお~とちゃぶ台をひっくり返しそうな雰囲気であったのであるが、今だから言えるが、そのプロジェクトに配属になったおかげでソフトウェア開発のイロハ、エンジニアリングのイロハ、大規模ソフトウェア開発の実践について得がたい経験をさせていただいた。わたしのプログラマの血となり肉となっているのはそのプロジェクトの経験である。

商用プログラミング言語の実装。これはあなたが想像する以上にタフな仕事である。コンパイラのバグというのはあってはならない。言うのは簡単だが行なうのは非常に難しい。

COBOLの言語仕様はCODASYLという委員会が定義しているので、我々実装者はその仕様を文字通り一行一行解釈しながら実装していく。仕様書は自然言語で書かれているので表現があいまい(複数の解釈がある)な場合があるので、それについて一つ一つ解釈を明確化しないといけない。

日本語COBOLについてはJEIDA(今のJEITA)がその仕様を発表していたので、その仕様を実装することになっていた。その仕様は普通の日本語で書かれていて、(形式言語で書かれているわけではないので)、実装定義とか実装依存とかに満ち満ちていた。大人の事情はよくわからないがわたしには妥協の産物としか思えない言語仕様であった。しかし、それを実装するのがわたしの仕事であった。

職業プログラマとしては、自分が神になって自分の言語を創造するという、後にまつもとゆきひろが実践したようなことは全く思いもよらないことであった。少なくともその当時、わたしは実用的なプログラミング言語は委員会で開発されるものだと頑なに信じていた。COBOLもFORTRANも、そしてLispですら委員会で作られていた。その終局の形がAdaという言語であったのだが。

VAX COBOLの開発チームは、COBOLコンパイラに直接手を加えることを良しとしなかった。日本語COBOLのソースコードをプリプロセッサがCOBOLのソースコードに変換し、その後COBOLコンパイラがコンパイルするという方式に固執した。日本のチーム、彼らから見て馬の骨とも知れないチームがVAX COBOLコンパイラをいじくって品質を劣化することを危惧していたからである。それはそれで理解できなくもないが、プリプロセッサだと実装するのが難しい機能も多々ある。しかし、結局はわれわれは実績もなかったのでプリプロセッサ方式を受け入れざるを得なかった。

VAX COBOLのプロジェクトリーダーにはソフトウェア工学のイロハを教えてもらった。デイリービルド、リグレッションテスト、バグ登録、バグ分析、ソースコードレビュー、ソフトウェアインスペクション、などなど。

80年代初頭日本にはまだインターネットというものがなかったが当時のDECには全社的なネットワークがあって、社内のすべてのコンピュータがそれに繋がれていた。物心ついたころからネットワークがある若い人たちには信じられないことかもしれないが、当時のコンピュータというのは単体で使うことが前提でコンピュータをネットワークする事はむしろ例外的なことであった。そして、会社にある文字通りすべてのコンピュータをネットワークで繋いでいる会社は世界中みわたしてみてもDEC以外見当たらなかった。IBMやXeroxも社内ネットワークを持っていたが、IBMはメインフレーム中心でPeer to Peerのネットワークではなかったし、Xerox社内のネットワークを利用できるのは研究所の人間など限られた人たちだけのようだった。

社内の開発部門のネットワークを Engineering Network 略して E-Net などと呼んでいた。そしてE-Netを利用して日々、米国東海岸にいるVAX COBOLチームとメールをやり取りしながら開発を行なっていた。VAX Notesという社内会議システムがあって、情報共有はそのNotesを利用するのが定番であった。

ネットワークはフラットであった。

後にインターネットで実現されるような社会がそこには垣間見られていた。数万人の社員が一つのコミュニティに属していた。

わたしはソフトウェア工学のイロハを学ぶとともにネットワークの可能性に心を躍らしていた。

ソフトウェアをチームで作ること、それもネットワークの向こう側の人を信頼してソフトウェアを作ることの難しさ大変さ、そして楽しさ面白さを経験したのであった。

30代のころ - ユメのチカラ
http://blog.miraclelinux.com/yume/2007/11/30_477c.html

下記に当時の日本語FORTRANの仕様がある。言語仕様の雰囲気を感じ取っていただければ。日本語COBOLの仕様書は発見できなかった。
http://it.jeita.or.jp/document/publica/standard/pdf/JEIDA-42.pdf

30代のころ

日本のIT産業とかの憂鬱を書くとページビューとかブックマークがどどどどっとつくようではあるが、若干趣向を変えて昔話。

よっぱらいオヤジの昔話なんてまっぴらだと言う方はどうぞ次にいっちゃってください。スルーです。

わたしは新卒で世界第二位のコンピュータベンダーの日本法人に就職した。若い人は知らないかと思うが、当時DECという会社があったのである。今はその会社はない。

29歳で結婚して、31歳の時、米国本社へ一年間出向する機会があった。1989年10月のことである。身重の妻と一緒にBoston Logan Airportに降り立ったわたしは不安と期待で胸が一杯だった。出張で何度か来た事はあったが海外生活はもちろん初めてだし、本社で働くということに対する不安と期待が渦巻いていた。

ハロウィーンの季節だ。米国New Hampshire州の紅葉は、それは見事だった。自然が豊かなところである。

オフィスへの初出社。期待に胸を膨らませてSteve Hagan(当時のボス)のブースに行った。Steveが人事的なあれやこれやを説明してくれた後に、じゃあ、メンバーを紹介するよと言ってオフィスを案内してくれた。各ブースのパーティションの壁は日本のそれと違って背の高さほどあるので、いちいちブースに顔を出さないと中で何をしているかはわからない。

こっちのエンジニアはどんな格好をしながら仕事をしているのだろう。どんな風にブースを飾っているのだろう。やはりバリバリのプログラマはTシャツにジーンズで髭茫々という定番の格好だろうか。

そんなことを考えていた。

最初のエンジニアはスーパーマンの格好をしていた。次のエンジニアは魔法使いの老女だ。ともかく思い思いの変な(?)格好をしている。Steveが、わたしのことを紹介してくれるのだが、わたしは口をポカンとあけながら、ともかく、スーパーマンだか魔法使いだかと、Nice to Meet Youとか言いながら握手をした。

な、なんなんだ。ここはなんなんだ。

後にその日はハロウィーンと言って、それぞれが思い思いのコスチュームで楽しむ日だということを知ったのだが、海外赴任生活一日目のオフィス出勤者のわたしにとってはインパクトが強すぎる経験であった。

さすがに毎日スーパーマンではないということを知り、ほっとしたのであるが、それでも、ブースの中でポップコーンを作るやつはいるし、それぞれのブースにはそれぞれ趣向を凝らしたデコレーションがあったりした。

仕事はと言えば、我々が開発した日本語版のソフトウェア製品のコードを本社の製品にマージするという作業で、技術的なチャレンジはそれほどはなかった。当時の外資系のソフトウェア部門の仕事というのは、本社が作ったソフトウェア製品の日本語化というのが主であった。日本語の文字コードを扱えるようにしたり、日本語のメッセージを追加したり、日本語のマニュアルを作ったりという仕事である。

当時はユニバーサルな文字コード(Unicodeみたいなもの)というのがまだ一般的ではなかったので日本語のコードとしてDEC漢字コード(EUCみたいなエンコーディング)などをサポートするように本家のソフトウェアを変更していた。

本家のソフトウェアを変更するので、米国版ソフトウェアと日本語版ソフトウェアと別々にできてしまう。米国版ソフトウェアが完成してから日本語版を作成するので、1)開発コストがかかる、2)出荷の時期が遅くなる、3)出荷してからのメンテナンスが難しい、などなど問題点が多い。

そこで、日本語機能を本家にマージすれば問題は解決するのであるが、処々の事情でなかなか物事は簡単にすすまない。

わたしは入社以来、朝から晩まで日本語化なんて作業をやってきたわけで、それなりに第一人者である。コードを読まなくても現象から実装上の問題点などもだいたい見当がつくし、変更方法についても見通しを持っていた。本家の連中との議論も、そもそも論で言えば、国際化も考えていなくて何がソフトウェアだ、みたいなことを盾にずんずん説得していった。ラフなコンセンサスと動くコードみたいな世界である。

まあ、そんなこんなで、日本語版Rdbを一般化した国際化Rdbのソースコードを持って米国本社に乗り込んだのである。

New Hampshire州 Nashua という片田舎での生活は、まわりには日本人なんかほとんどいないし、それはのんびりしたものであった。冬はアパートの池がすっかり凍ってしまって、子供たちがそこでスケートをしている。会社まで歩いていける距離なので、通勤も楽だ。リスや鴨がうろちょろしている。

米国の生活もハロウィーンから始まって、七面鳥を焼いたり、年末年始のBoston、などなど楽しいものであった。妻は出産のために一足早く帰国したが、初めての米国生活は不慣れなことも多々あったが、結果オーライという感じであった。

その後、DECは業績が悪化し、Rdb部門は競合のOracle社へ部門ごと売却されてしまう。リストラで社内の空気は悪くなっていく一方であった。

日本に戻ったわたしは、日本で開発がどんどん縮小されていく現実とどう向き合うかを考えぬいた。ある意味、残るのも地獄、出るのも地獄の世界である。

日本DECの希望退職制度を利用して日本Oracleに転職したのが94年である。36歳の時である。転職としては、必ずしも若くはないが、かといって遅いと言うわけでもない。

退職時にお世話になった人たちにメールを書くという習慣があるが、わたしもいろいろな人たちにメールをした。その中の一人に初めての海外赴任でお世話になったSteveがいた。Oracleに転職するのだと言ったら大変喜んでくれた。

当時、DECのRdb部門がOracleに売却されたことによって、日本でも日本DECから日本OracleへRdb関連の引継ぎが発生していた。わたしもそのプロジェクトを日本Oracleで手伝うことになった。その引継ぎの会議でRdbについて最もよく知っているのがDEC社員ではなく日本Oracleの新入社員のわたしという奇妙なことになっていた。

まあ、それはともかく、日本Oracleに就職してアライアンスパートナーの支援をしていたところ、米国Oracleの開発チームからお声がかかってOracle8の開発に参加することになった。95年のころである。

会社の中で自分がやってきた仕事がなんらかの理由でなくなったとしよう。工場の移転でもいいし、部門の統廃合でもいい。なんらかの理由で転属ないし配置転換などが求められたとしよう